DAW武者修行10日目
誰が言ったか武者修行。武者修行とは辛く楽しく、己を見つめ直すことだ。
ひたすら自分の考えを放出してみよう。
人生の主人公は自分だ!
と言う訳で、
今日のテーマは作曲ではかなり大事な「似てる似てない」の話だ。
作曲を始める動機と言うのは、ほとんどの場合「憧れ」である。
「この人みたいな曲を作りたい!」
物事の始まりは、本当にこういうのがきっかけ何だと思う。
もちろん、特定の曲、アーティストに興味があるわけでもなく、単純に作曲をしてみたい!そうやって始める人もいるだろう。
しかし、人は作り方を学ぶ過程で結局は何かの音楽を聴く、参考にするわけなので、自覚しないする以前に、必ず自分のフィルターに通している。
また、言ってしまえばそれを自分できちんと理解しているかも、作品を作る上では大事になる瞬間もあると思う。
今日はこれについて考えたい。
目次
影響を受けた作曲家
作曲を続けていく中で、どうしても避けて通れないのが何かの影響を受ける、すなわち「インプット」だと思ってる。
何も影響を受けずに自分のオリジナルを書く奴は天才だ。
だが、クラシックの作曲家でも先人の影響を受けてるし、そもそも音楽はそうやって発展してきた。
だから基本的には、音楽というのは影響を受けて作られていくもの、だと思っている。
したがって何かに似てしまうことは至極、普通のことである。
これは何も音楽に限った話ではない。
身の回りにあるもの、そこら中に影響を受けて作られたもので溢れているはずだ。
リスペクトするということ
似てるどうこうというのは、音楽においては特に問題になる話題だ。
メジャーアーティストの曲でも、盗作、パクリというキーワードが一定の確率で出てくる。
これについては表現者、各々で解釈が違うと思うが、
基本的には「公表するかしないか」ということと、「聴く人次第」だと思う。
まず公表しているかどうか、これはかなり先入観としては影響が大きい。
〜の影響を受けています。
〜は自分の中で神だと思ってる。
みたいな形容をする人がいるけど、そういう人が実際にオリジナル曲を公開する時、
それらに似ていても
「あ、あの人の影響受けてんだな〜」「あの人好きなんだなこの人」
このように、リスナーも自然にそれらを受け入れることができる。
うまくいけば、それによって元々影響元が好きなリスナーがその人のことも好きになる、という連鎖も期待できる。
あくまでこれは「パクリではない」ということが前提だ。
パクっていたり、あまりに似すぎていた場合、何を言っても容赦無く「いや、言い訳だろ」ってなる (厳しいんだリスナーは)
反面、それをわざと避けるように公表しない人も稀にいる。
「え、明らかにこれ〜の曲に似てるやん」「〜のパクリじゃない?」
リスナーはきちんと影響を受けた人を公表していないと、憶測で好き勝手に曲を聴いてイメージを膨らますことがある。
それはもちろん自由だし、それが音楽の楽しみ方だから何の問題もない。
ただ、それらが作曲者にとって意図した評価でなかった場合、リスナーと作曲者の間で不自然な関係が作られてしまう。
例えば漫画でいうと、
「絶対この絵柄、この人に影響受けてるやん、目とかタッチとか似すぎでしょ」
それでその漫画家が
「〜先生は自分にとって神です。尊敬です原点です」
こんな感じなら、ああ、そんなに好きなんだな、とまだ理解できる。
それが、絵柄の影響を受けたことを避ける口実で、全く別の人の影響を受けた、と書いてしまう場合、それは果たして信用してもらえるのだろうか、という。
もちろん、本当に影響を受けてないのであれば仕方ないが、素直に影響を受けた人をリスペクトして公表する、これは自然なことだと私は思っている。
私自身もゲーム音楽から影響を受けているので、誰かに似ていると思われても、むしろそれは歓迎だ。
自分で作ってても「この曲は〜さんに影響受けてんなー俺〜」ってなるんだ。
それは自分が曲を作る上でもなるべく理解しておくべきだし、似すぎていた場合、回避、もしくはやり直しすることもできる。
自然に出てしまうことももちろんある。
それでも音楽で表現するかぎり、これに関しては意識する必要があると思っている。
また、聴いたリスナー次第では
「影響を受けている」と思うか、「パクリやん」って思うかどうかの「各々による境界線」が存在する。
リスペクトとパクリの境界線
これは非常に難しい問題であり、
プロとして職人気質で作曲をする人、アーティスト、アマチュア、それぞれの立ち位置によって規模が変わってくる。
これは簡単に説明すると、
趣味でやってる人が、何かにほとんど似ている曲を作ってネットにアップして「オリジナルです!」っていう話と
レーベル所属のプロ作曲家が、〜の曲のメロディとすごく似ている曲を〜という大物のアーティストの曲として作っていた
という話では、問題が起きた時に前者ではまずどうでもいい、ってなるのだが、後者では大変なことになる。
ご存知、作曲人生が終了する可能性もある。
もちろん、意図的だったか、無意識だったか、それはこれだけの曲が出ているので本当に難しい問題だ。
ただ、それも含めて音楽を作るむずかしさ、だと思っている。
そのメロディを受け入れられるか
まず「メロディが似ている」という問題について。
これは出だしの〜までがどうたら、とか、まぁそんな話もあるんだが、そんなんはまぁぶっちゃけどうでもいい。
一番重要なのは
「その人が聴いて受け入れられるかどうか」
もうシンプルに言ってしまえば、それだけだと思っている。
ぶっちゃけ言うと、こう言うのは「肌で分かる」と言えば分かりやすい。
本当に自分が今まで聴いてきた何かの曲に似ていた場合、聴いた瞬間おかしい、違和感がある、みたいな感覚になる (しかし何故かこれが自分が曲作るときに鈍る)
もちろん、気のせいだった、ってこともあるわけだが。
Key、音域、コード、ハーモニー、リズム、テンポ、アレンジ
どれだけ作曲家がアレンジして回避していようが、気づくリスナーは気づく。
しかし、リスナーの感覚、知識によっては「似てるけど、まぁ一パクリではなくないか?」となることもある。
やはりリスナー次第。
そういう風に聴き比べで編集された動画なども検索すれば出てくるが、それに対するコメントを見てみると面白い。
だいたいどの曲や、どんな要素がパクリとか、似ているとか言われるのが分かる。
例えばこれとか。
これとかも面白い。
(もはや普通に似ていようが面白いんだが、音楽業界では問題になる時はなるので怖い)
どれだけ理論的にどうこう言っても、ジャッジするのはリスナーだ。
自分も、いちリスナーとして思うことだが、メロディが似ているある限界点を越えると、生理的に受け付けられない、という現象が起きる。
リスナーによっては、それが大好きなアーティストであったりすると、それが原因で最悪嫌いになってしまう可能性もある。
そもそも作詞作曲も本人なのか、提供した作曲者があくまで原因だったかにもよるが、思わぬイメージダウンを食らってしまう場合もあるだろう。
これは歌ものの話だが、インストの場合はまだ歌モノのよりもこれらを気にせず作れているようにも思える。
インストは汎用性もあるので、無限にありそうだ。
これはあくまで、私の知る売る世界観での話だが、つまりリスナー次第ということは、そういうことだ。
作曲者が影響をコントロールできるのか?
では、作曲者の視点でこれを考えてみる。
私はインストしか作ってないのでその視点でしか書けないが、おおよそ自分でも「似ているかどうか」というは気にしながら作っていた時期があった。
まさに作曲をスタートした当初である。
私の考えでは、おそらく基本的にパクろうとしてパクる人はいない。
まず当たり前だが、バレたらおしまいだからだ。
そして表現者としても失格であり、まず自分が聴いていて「聴いてられない」となる。
しかし、作曲する上ではどうしても最初は既存曲を参考にする。
私もそうだった。
それが本当に似てしまうんだ。
それは自分に技術がないから。
その時の作曲者の感情としてはこうだ。
「ここまで作ったのに・・・泣」
下手をすると最初の頃は、似て居ることを自分で認められないかもしれない。
私がまさにそうだった。必死で似てない、と言い訳していた。
どうしても人の曲と自分の曲とでは聞き方が変わるから、自分の曲はジャッジしにくい。それは作る過程で何度も聞きすぎてしまっているのもあると思う。
何度も友人に聴かせて
「聴き方によっては別に待ったく同じじゃなくね?」
「同じじゃないけど似てるよな」
「くそ〜そう言われたらもうクソに思えてきた」
「仕方ないだろ、好きなんだから。作り直せ」
「あっさりいうな〜」
そう、そこで自分は作曲者として思うんだ。
あ、自分は「誰かに聞かせるために作曲してるんだ」って。
ブログでも書いてきた。
最初は「自分が架空のゲーム音楽を自分が聴きたいだけのつもりで作った」と。
でも、実際に聴かせるわけだ。
なぜか?
それは「共有したいから」そして「認めて欲しいから」
それに気づいた。
人の曲に似ているフレーズを使っても、それが達成できないと知った時、自分でも全く嬉しくないんだ。
似ている、聴いてくれる人がそう思う、ってことを、自分の個人的な無理強いで説得しようとしていたんだが、それに気づいた時に自分の必死の言い訳が恥ずかしくなる。
「ここまでやったことを無駄にしたくないから」
ただそれだけなんだ。
作曲し始めは、一曲を作るのが大変だ。時間もかかる。
だから尚更こういう気持ちになる。
でも、作曲していく過程で、これは無駄じゃない。
そう自分に言い聞かせなければ前へ進めない。
本当にガッカリする。実際。
でも、自分に技術がないんだから仕方がない。
フレーズがあまりに似ていたため、たったそれだけの理由でそこまで時間を費やしたものが完成されなくなる。
しかし、たったそれだけの「その理由」が音楽では非常に大事だ。
どれだけ他が素晴らしくても、そこで評価が変わってしまう。
もちろん、フレーズを変えて構成しなおせばいいと思うが、そこまでに何回もそのパターンを聴いて作曲してきた場合、もはや客観的に違うフレーズを組み込めなくなっている場合が多い。
「わぁー待て待て!それをいじると曲が崩壊する!」
こんなのはしょっちゅうだ。
作曲をスタートした人の葛藤はこういう部分だと思う。
ようやく形になるようなものを作れたのに、いつの間にかどこかで何回も聴きすぎたフレーズを入れてしまっていた。
自分の中では「頭で鳴っていたフレーズ」だったのに。
俺が閃いたフレーズではなく、俺が今まで聴いてきたフレーズだったのか・・・
っふ、仕方ねー!! それだけその人の曲が好きだったってことだ!
そんなのパクるわけにはいかねー!
作り直しだ!!
ってなるのにだいたい一週間くらいかかった。
葛藤だった。
パクリから→影響、にまで削ぎ落とせ
最初は似ているとか色々言われる。
私も言われた。
だが続けて何百曲も作っていくうちに、多少似ていると言われようが、気にしなくなった。むしろ歓迎だ。
パクリ、と言われない限り、全て「影響」で済まされる。
そして、影響は自分にとって誇りだと思っている。
なぜなら作曲をする上で、それらは全て自分の曲を表現するために必要だったものだからだ。
影響のコントロールとは、その名の通り、自分と言うフィルターを通してそれらをうまく「自分の表現に変換すること」である。
それが自然にできる人もいれば、意識しないとまだ似すぎてしまう、って人もいる。
似ているけどパクリではない、という表現にまで変換するには、参考にする際に自分の視点や考え方が頼りになってくる。
まぁどれだけ深いこと考えたところで、結局はリスナー次第だ。
シンプルな話でもあり、深い話でもある。
終わりに
「パクり」か「リスペクト」か。
自分だけが聴く場合は自分だけ問題だが、誰かに聴かせる場合はそうはいかなくなる。
その中でも、
「影響元、リスペクト元を公表する」のはリスナーを混乱させない1つの方法だと思う反面、先入観を持って欲しくない場合、諸刃の剣となる。
「ゲーム音楽に影響を受けています」
私がこう書く理由は、紛れもなく事実であり、そういう風に自分の曲を聴いて貰いたいからである。
その上で、どう感じるのかはリスナー次第となる。
どう伝えるのかは自分次第だが、どう伝えるかでリスナーが少なからず影響を受けるのは間違いない。それは音楽に限らずどの分野も同じ。
音楽というのは音で伝えると同時に、言葉でも伝えれる要素がある。
不思議だな。
「ぬぅ〜最近野宿が多くて風邪を引いてしまいそうだ、明日こそ宿を探す」
「兄ちゃん野宿続きか・・・よし、知り合いに連絡しとくか」