ゲーム音楽の巣

フリー音楽素材サイト「音の園」の管理者及び作曲者。このブログではキーボーディスト、ゲームミュージックの作曲を中心に音楽雑記を書いています。健康第一。

映画『FAKE』を『作曲視点』で見た考察と個人的な感想【ネタバレあり】

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FAKE、公開されてから巷で面白かったっていう声が多いですね、いや実際面白過ぎです。

この映画を見るキッカケとなったのは、ゲーム「鬼武者」の音楽を通して知った「佐村河内守」氏の存在と、その後のゴーストライター騒動の流れからになります。

FAKE を見る前にこんな記事を書きました。

andy-hiroyuki.hatenablog.com

私は、いわゆるゴーストライター騒動で彼らを知ったのではなく、ゲーム鬼武者の作曲者として名が知られ始めた時から彼らを知ることになります。

彼の造られたストーリーや音楽に魅了された一人でした。

この映画で注目されていることは、ゴーストライターの「新垣隆」氏の言葉をはじめとし、メディアを通して世間に広がった情報の事実性に関してだと思います。ですが実際に見終わる頃には、見る前とは随分違った感想が出てくるように思えます。

見た後の感想、映画が語る内容としては、世に流れた情報が嘘か真実か、といった単純なものでは無いと思っています。少なくとも、森氏 が撮りたかったことや伝えたかったことはある程度あったとは思いますが、最後の最後まで本人も未知だったのではと思います。

見る人それぞれに委ねられる内容となって、自分自身がどう思ったかが重要なので、その辺を書いていきたいと思います。

目次

はじめに

この映画はおそらく見方によって多面性があって、またそういう余地がたくさんの残されています。

パンフレットの著名人の感想などを目にすると、一般的にはメディアの情報操作についてや、映画に出てくる 佐村河内氏 が飼っている猫がかわいいとか、佐村河内夫妻の支え合ってきた感動シーン? みたいな部分への共感などを様々な感想があります。

映画同業者からの視点や、一般的な興味本位からの視点、ファンからの視点、報道側からの視点、色々ありますね。

私は別に映画監督の 森達也氏 の事を知っていたわけでもありませんし、彼の過去作も見てないので、彼が撮りたかったものとか、撮影パターン、手法など、そう言った事には別に気にしていません。

あくまで私は作曲者の視点で見てました。価値感も重視していた点もそういう部分ばかりと、その偏りにも自覚があります。

ですがそれによって外側というより、内側から映画を見れたかなと。

今までの嘘→ゴーチの自伝→嘘が発覚→新垣氏の証言、メディアの報道内容→神山氏の批評→新垣氏の自伝→ゴーチの言い分、ゴーチの認めた嘘とまだ認めてない嘘、さらに全聾に関する問題の論点のすり替え部分 (当初の聴こえるかどうかではなく、程度加減やニュアンスの話になっている)、ラストシーンの真実

あの時はこう言っていた、あの時まではこの設定だった、ここからはこう言っている、これはどうなった、まぁ書き出すとすごいです。

このように時系列に沿った情報整理がかなり難しいので、それをやりだすと多分推理とかそんなレベルになってしまいます。なのでそういうのは得意な方に任せ、私は自分なりの感想を書きたいと思います。

ネタバレを含んだ上での感想となりますので、まだ見ていない方、今後 DVD や TV 放送など (あるか分かりませんが) で見る予定の方は了承した上で・・・。

映画の内容

FAKE は、映画監督の「森達也」氏が ゴーストライター騒動よりメディアから姿を消した 佐村河内氏 のその後を追った内容になります。

従って、撮影舞台となるのは 佐村河内氏 の自宅がメインです。この生々しい感じや雰囲気が本当に良いですね。

登場する重要な人物としては、彼の奥さんである「香」さんで、あくまで耳が聴こえないという設定ですので、登場人物たちは彼女の手話サポートにより 佐村河内氏 との意思疎通を図ることになっていきます。

森氏 が個人でカメラを回しながら、友人のような関係、雰囲気で 佐村河内夫妻 に絡んでいきます。佐村河内氏 は、少しずつ森氏 に胸の内を開いていき、当時メディアに流れた情報や、真実と (あくまで 佐村河内氏 の中での) かけ離れ脚色された報道に対して、自身の反省と後悔を含んだ上で胸の内を露わにしていきます。

映画の見所としては「衝撃のラスト12分」とされていますが、ここをどのような解釈で見るのかは人それぞれで全く違うように思えました。

以下はこの映画を見るにあたって、見る人が一般的に解決したいと思っていることをサラっと書いていきたいと思います。

全聾の真実

結局耳が聴こえるかどうか、 という部分に関しては最後まで語られることはありません。映画の中はもちろん、書籍やネット、TV の報道などをヒントに色々と推測している人も多いとは思いますが、決定的な場面は最後までありません。

いつの間にか全聾の話は、聴こえる聴こえない、から、これは分かる、これは分からない、こう聴こえるから分からない、会話が出来ない、などと言う「程度加減の問題」にすり替えてるんですね。

一定の時期まではある程度聴こえていた、医者の診断書などの資料や数値では聴こえない、音が曲って聞こえるなど、聴覚障害の症状が確認されていますが、それが本当かどうかやその程度加減は本人しか知る由がありません。

映画の中で語られる内容としては、音はなんとなく聴こえるが、音として聴こえるだけなのでその音が「あ」とか「はい」「いいえ」などを判断できないという。そのため話し相手の口型、母音から相手が何を言っているのかを手話のサポートを通じて判断していると語ります。

視覚で相手の口を見ると情報が分かってしまうため、目を閉じながら音だけで聴こえるかどうかチェックしたりするテストも映画の中では行われます。

絶対音感があるかどうか

森氏 は単純に質問します。聴こえないのにどうやって曲を確認したりするのか、と。すると リズムからメロディが分かる、という部分を 佐村河内氏 は強調します。机の上を指先でタッタカタッタカ、とやるだけで、そのリズムから自分の知っている曲なら何の曲かは大体分かると言うのです。

聴こえない訳ではなく、曲って聞こえる、ということをカミングアウトしてからは「音は分かる」ということを武器に、「トントン」とリズムが聴こえれば音程が聴こえなくても分かるという。

これは映画の流れでパフォーマンスされると流れで納得してしまいがちですが、実際リズムの主導権を相手に握られたら分かるかどうか不明な部分はあります。

映画を見てる方は注意深く見ていないと何となく話の流れに流されて納得してしまうでしょう。彼が意図的にそれをしたのかはさておき。

さらには、アドリブで顔太鼓のパフォーマンスをし始めます。

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https://www.webdice.jp/dice/detail/5136/

これはどういうものかと言うと、口を開けながらほっぺたを両手でリズミカルに叩き、叩いた時に鳴るその「ポンポン」という音が「音程」をしっかりと持っており、さらにはその音程を正確に操っているのです。

先ほどのリズムパフォーマンスの延長なのですが、先ほどは音程を操れなかっただけに、今度はポンポンっというリズムあり、さらに音程も正確なのですから、顔太鼓でメロディを聴かせるようなものです。

てかゴーチさん、これピアノ弾くより難しいぜ。

このシーンでは笑いながら「芸人かな?」 と思ったと同時に、まぁ本当に耳が聴こえない上でこの音程の正確さなら絶対音感はありそうだな、と感じました。

あくまで聴こえていなければの話ですが

いずれにしても、奥さんや手話サポートがなければ会話が出来ない状態という設定です。

作曲ができるかどうか

これは今回の騒動の中でも聴覚に次いで多くの人が気になる部分だと思います。

実は映画を見た人が佐村河内関連の本を事前に読み、それらの事前情報をどの程度得ているで、ラストシーンの衝撃度が変わってくると思います。

佐村河内氏 が元となるメロディのモチーフを作り、それを 新垣氏 がオーケストレーション、編曲していくという話もあれば、曲によっては完全に 新垣氏 が一から全て自分で作ったとか、毎回あくまで指示書を提示してきただけで作曲には一切携わっていない、など色々な報道がありました。

また、どれも話は本当で単に時系列に沿ってそれらの内容が段々と変化していって、情報が独り歩きしていくなど。それに沿って本人も次々言い訳しているので、余計分かりづらい。

映画の見所の一つに、海外のインタビュアーが 佐村河内氏 に色々と質問する場面がありました。本当に的をついた良い質問ばかりで、見ていて 佐村河内氏 が少し気の毒にも思えました。

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https://www.webdice.jp/dice/detail/5136/

映画を最初から見ていくと、展開的には佐村河内サイドの視点なので、佐村河内氏 の言っていることはまんざらではなく、新垣氏 や 神山氏 らそれぞれの視点や言い分もあるだろうけど、各々の視点の事実性みたいなものがある、というのはまぁ分かるなと。

要は誰にでも、自分の中での言い分、というものがあると思います。自分の中での感覚というか、自分にとっての常識感みたいなものでしょうか?

例えば、ピアノが弾ける弾けないというのも、音大を出てアカデミックなレベルが標準となっているような 新垣氏 からすれば、佐村河内氏 の弾けるは「弾けない」のと同義語になる、ということです。

これは側から見ると極端な例えに見えますが、要はそれぞれの自伝を読むとそういう認識で自分はそう思った、と処理していることが分かります。

だから「自分は聴こえないと感じたことは一度もない」と 新垣氏 が言うのと同じですね。いやあなたはそう感じたかもしれないが、私は実際に聴こえていないんだ、となります。

話を戻して、

で、その海外のインタビュアーの質問の場面では別に特別クリエイターの気持ちにならずとも、一般的な視点から見ても「全く言い訳の余地が無い質問」ばかりを投げかけます。

その質問に胸を張って答えられない 佐村河内氏 を見て、映画を見ている私たちは彼への不信感が増します。

そう、たったこれだけで、今までなんとなく 佐村河内氏 の言ってることもまぁ全部が全部嘘では無いかもな〜と信じかけようとしていたのが、簡単にヒックリ返るのです。本当に面白いですね。

質問の内容

例えば、そんな詳細な指示書が書けたり音楽が好きなのに、18年間もあってなぜ自分で少しでも楽譜を書けるように勉強しなかったのか、など突っ込んでいきます。本人の書いた指示書はあるが、楽譜が書けるという証拠がないのです。

で、何で書かなかったのかと聞かれると「何ででしょうねぇ」と濁します。

指示書を見せることしか出来ないので、指示書を見せます。そして精一杯の背伸びが「本番はもっとすごい細かく書きます」という感じで言い訳します。まぁ実際これに関しては書いてるのからいいのですが、それが作曲だと証明は出来ません。

指示書は単に 佐村河内氏 の勝手な構想や、精神論、テーマの話ですから、新垣氏 が共有していなく一方的なものだとしたら100歩譲っても役割的には「スペシャルサンクス」あたりでしょう。

さらには、今ここで簡単でもいいのでメロディとコードを弾くことは出来ないのか? あなたがピアノを弾けるというところ、作曲出来るというところを我々は見たいんだ、などと遠慮なしに言います。

すると「うーん、もう何年も弾いてないから弾けない」と答える。

ピアノ、もしくはキーボードかシンセサイザーは無いのか? と質問すると「捨てたから無い」と佐村河内氏 は答え、「なぜ捨てる必要がある?」と突っ込むと「部屋が狭かったから」と言う。

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https://con-isshow.blogspot.jp/2016/04/fake-reviews.html

ここで誰でもがやはり 佐村河内氏 の言っていることがおかしく、少なくとも作曲に携わろうとする者の環境や行動ではないな、と思うでしょう。本当はピアノは弾けない、作曲も出来ないから言い訳している、と思って失笑していたはずです。

まぁ部屋が狭いというのは、あくまで前に住んでいた部屋が狭い、という話ですが、ぶっちゃけどんなけ小さな部屋に住もうが、趣味ならともかく作曲家を目指しているならシンセやピアノを捨てるのはおかしな話、というのは作曲者でなくとも分かる話です。しかも部屋が狭い、という理由で。

最初は弾いていたけど、捨てたあたりから指示書を出すだけの作業に移行したから、シンセ類は不要になったのか、単純にシンセがあるとこのような場面で弾かざるを得なくなるから無いのか。

でも・・・実際弾けるんですよね。

弾けるのに置いていない、弾けることを隠す為では無い。ここに聴覚の問題や、自伝の嘘の内容など様々な設定が絡んでくるので弾けることを証明するだけでは、さらに色々な疑問を生むでしょう。

自分が公開した設定、守って貫いている設定、数々の証言や時系列の問題もあり、突っ込まれると余計厄介なことになると思ったのでしょうか。

共作にした上に、その構成比にこだわる

本来ゴーストライターの起用がバレてからは、ピアノやキーボードが必要だとか、弾けることだとかはもはや問題ではありません。すべて 新垣氏 が作っていた、と言う話ならあくまで指示書だけ渡していた、で終わります。

指示書を渡すことが自分にとっての作曲なんだ、と綺麗サッパリ言い張ればそこで話は終わりです。でも指示書は作曲にならないよ、と世間から言われてしまいます。

そこで問題になっているのは、彼が「共作だった」と渋っているところでしょう。

その構成比は指示書に加えて、「曲のモチーフとなる音源を渡していた」と、自分の出来ることを増やして訴えます。このように今度はどこまでは自分で、どこまでは 新垣氏 がやった、ということにこだわり始めます

ここも見ていて「大変だなぁゴーチ、次から次へと突っ込まれて」ってなっちゃうんですね。いやバカにしているわけではないんですけど、もうそういう人なんだなぁゴーチは、っていう見方しかできなくなります。

新垣氏 が仕上げの編曲やプロフェッショナルな過程を担当しているのは認めるが、あくまで元は自分なんだと。指示書やモチーフの音源を渡した、とあくまで言い張るならば、それに対してインタビュアーは

「じゃあピアノ弾いてよ、楽譜書いてよ、音源聴かせてよ」となります。

ただ色々と突っ込まれてもそれをその場で証明出来ないんですが (笑)

と、ここまで来ると やはり作曲は出来ないし、ピアノも弾けない、と思いますよね?

しかしラストシーンでさらにその想像がひっくり返ります。

ラスト12分のシーンとは?

森氏 はラストに迫ると 佐村河内氏 に「守さん、また作曲しようよ」「そんなに音楽好きなんだから表現したいこといっぱいあるでしょ」と誘導します。カマかけたんですね。で彼は「うーん」と渋っていたので、森氏 は、じゃあ曲が完成するまで僕タバコを辞める、とまで言います。

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https://filmers.jp/articles/2016/05/24/12fake/

しばらく日数が経った後に自宅に訪れると、佐村河内氏 の部屋にはシンセサイザーとスピーカーが置かれており、香さんに尋ねると彼は作曲している最中でした。

ここでまた問題発生。

音が曲って聴こえるから聴こえないようなもの、ということでしたが、補聴器を装着しながら普通にシンセでオーケストラの音色を弾いています。まぁここまで来るとクライマックスなので、もはやそれについては語られません。

ストリングス、ブラス、チャイム、ティンパニ、シンバル、オルガン、聴こえてるのか聴こえてないのか分かりませんが、曲を何回も再生して確かめながらどんどん打ち込んでいきます。

(ちなみにこの時に使っていたシンセは Roland  FA-06 というワークステーションシンセサイザーで、内蔵シーケンサーで打ち込んでいた)

つまり、聴こえてるの?

ここで視聴者の中では「聴こえないはずでは?」という人もいれば、「絶対音感はあるはずだから、鍵盤と音色名だけ見て本当にリズムも含めて脳内完結で打ち込んでいるのか」と思ったり。

または、途中でチェロの音がしっかりと出ているか、メロディが合っているか、と奥さんの香さんに質問するシーンがあるのですが、香さんはいいんじゃない? と手話や目で伝えます。

それらを見ると「実は多少は聴こえているんじゃ?」とも思ったり「ああやって、あくまで殆ど聴こえない状態をアピールしているのでは?」など、色々と思うところがあったと思います。でも補聴器の説明が分かりません。付ければ曲って聞こえる音がもう少しマシに聴こえるのか? そんなこと言ってません。

興味があるのは曲自体

私はちょっと呆れてましたが、それよりも彼の作る曲に興味深々だったのでもはやそれはどうでもよく、純粋に作曲している姿を楽しんでました。

そしてこの曲がスタッフロールに絡んでいき、エンディングを迎えます。

最後に、散々インタビュアーに対しても渋って言い訳していた、作曲出来るかどうか、ピアノを弾けるかどうか、という事を映画を通して証明した 佐村河内氏 に対して 森氏 は、

「守さん、今僕に何か隠していることはありませんか?」

と質問して何も答えない 佐村河内氏  を後に映画はそこでバッサリと終わります。

客席からは

「エーーーー!! どーいうコトーーーー!?」

といった悲鳴が一斉に連呼されます。まさしく、見る人それぞれがどういう解釈をしたのか、見終わった後に色々な人と話したくなる、そんな映画でした。

ラストシーンまでの矛盾点と映画が物語ること

まずラストシーンの 佐村河内氏 が作曲、キーボードを弾く姿を見て驚いた人というのは、事前情報を得ていない大半の人であると思います。具体的には TV やネットの浅い情報のみを取得している層です。出来ない前提で見ているので驚くと思います。

次に TV と自伝をそこそこ読んでいる層の話です。まぁ私みたいな人の視点です。

佐村河内氏 を非難していた 神山氏 の批評本、新垣氏の自伝、そして佐村河内氏 自身の自伝と TV で放送された造り話も含めて、これらの事前情報を読んで映画に臨んだかどうかでかなり見方が変わると思います。

サングラス、杖、左手不全、聴力、作曲方法、言ってきたことが色々と矛盾しているのです。

矛盾という表現は少し違うかもしれませんが、要は時系列に沿って公開していった彼に関する情報の真偽、要は「設定」ですね。これらの情報を整理せずに漠然と見ているだけでは、おいおい無茶苦茶な話だな、となってしまうんです。

例えば簡単に出てくる疑問だと

サングラスは陽を浴びると症状が悪化するから必須という設定だったが、部屋の電気も付けるしベランダでタバコは吸うし、京都に普通のメガネで外出するし、もはや杖もいつの間にか使ってないし見当たらない。ピアノを弾きすぎて腱鞘炎になった左手に包帯は巻いているが普通に動くしピアノも弾く。

絶対音感を頼りにボイラー室の中にいるような轟音が鳴り響く中、絶対音感を頼りに各オーケストラの楽器の音を脳内でイメージし、譜面をおこしてから現実の譜面に写譜するという TV 番組があったが、結局それはゴーストライター騒動が発覚してから嘘なのか本当なのか、とか考えてたら、最後に普通にシンセで悩みながら打ち込みしている。しかも補聴器を付けている、という。

もはやここまでくると、細かい矛盾や設定などどうでもいい、というレベルなんです。まぁ少なくとも私にとってはもうどうでもいいんです。

どうでもいいというか「重要ではない」という言い方の方がニュアンスとしては正しいかもしれません。

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https://www.webdice.jp/dice/detail/5136/

本人自体もどこまで自分が施した設定を覚えて演技しているのかも不明で、当然 森氏 も、多分もうそんなレベル云々の内容を撮っているつもりもない気がしています。

人は大なり小なり誰でも嘘をつきます。

嘘が嘘を呼び、嘘をつかざるを得なくなる状況になり、その先はご存知、例え真実を言ってもそう簡単には信じてもらえません。

メディアが映す真実とは

会場に見に来ている人たちの一人一人がどこまでの情報を持っていて、どんな動機で映画を見ようと思ったのか、または見て感じたのか?

人は自分の持っている情報で、次に得られる情報の信憑生や嘘などを判断します。さらには、その持っている情報さえも嘘かどうかも実際には分からない情報です。

メディアが流す情報は、時にはいかに不正確であると同時に、酷い時には真実を知った上でも意図的にカットしたりと都合の良いように操作されています

佐村河内氏 の聴覚は「後天性感音性難聴」という症状を患っており、それが冒頭で書いた症状です。それをこの部分だけ報道側が隠していた、という。

正確には診断書の数値の部分だったりするのですが。資料を渡したのに、意図的かどうかはさておき、その重要な (彼にとっては) 部分だけカットされていたと。

各々が正しい情報を集めることが出来れば良いのですが、今回のように人によって持っているゴーストライター騒動関連の情報の精度や質も違います。

メディアで放送された部分しか知らなかったりと、一般人の情報網は限られています。

誰かが最後の最後にきちんと整理して、それを発表すれば良いという話ではありません。似たような話で殺人事件などのやったやっていない、があります。

何年も経って無実だったと言われても時間は返ってきません。途中経過の情報はそのような半端な内容も多く、それは当事者からすると致命的なことになりかねないのも分かります。

ただ仕方がないのは、この騒動は最初が嘘からスタートしているので真実を伝えるのは並大抵ではないでしょう。またこれらを機に、社会そのものがそのような状態であるとこの映画は示唆しているように思えます。

自分がどれだけ対象物に関心があるかで、情報の取得度や質が違ってきます。

どうでも良い事であれば、嘘かどうかもどうでもよく、TV で放送された中途半端な情報を鵜呑みにして判断したり、さらにはどうでも良いからその情報が最終的に間違っていたり合っていたりしても、そもそもそこまで関心がないから別にどうでも良いということもあります。

消費されていく情報というのはそのような感じでしょう。

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https://filmers.jp/articles/2016/05/24/12fake/

少なくとも、消費ではないのは当事者やそれに関わる周りの人たちだったりします。

巷の芸能人の不倫問題などもそうで、ただ最初こそは誰もが真偽を求めていましたが、時間が経つにつれて興味を失います。もはやどっちでもいい、となります。今回の聴こえる聴こえない、もそう (これは私か)

多分、色々な情報が出てくると、もうそこが本質ではないからだと悟るからでしょう。最初こそはそこが重要だったのかもしれませんが。

彼らの音楽が好きな人や、騒動が気になったり結局真相はどっちなんだ、というレベルの関心を持っている人たちが映画を見に来たり、何かよく分からんけどゴーストライターの映画がやるんだって、見に行ってみよっか、みたいなノリもあります。

さらにどうでもよければネットで調べて終わる程度の人もいます。

それがまた映画を実際に見た人と、ネットで感想を見ただけの人ではまた言うことや解釈が少しずつ違ってくるわけです。それが散らばり、真実は遠くまた曖昧になっていきます。

まぁここまでくると真実なんてものは無いのかもしれません。

言葉やストーリーなどは、都合の良いように脚色され、添削され、訂正され世に出されていきます。

この記事もそうですが。

私の見解

上記のように最後まで見ると、結局は何が正しかったのか、ということを証明する映画では無いことが分かりました。何度も言いますが、時間が経った今ではぶっちゃけそんなことは小さくも思えてしまいます。

そういう視点でラストのシーンを見た時に、

「あ〜、だからゴーストライターを起用したのか」と。

前述したように様々な矛盾点があり、嘘は少なからず絶対についていますので、それ前提で映画を見ています。だから何は嘘で、どれは本当で、どの部分は最後まで分からないのか、という見方をしていました。

そうなってくると、人によって求める重要な部分というものが違ってきます。

例えば、作曲が出来るとか出来ないとか、がとにかく知りたかった、という視点で見れば、ラストで本当に作曲している彼の姿を見て度肝を抜かれた人もいるでしょう。すげぇ、ピアノも弾けるし、曲も作れるじゃんか、嘘じゃないじゃん、みたいな感じでしょうか。

私は彼が出した自伝「交響曲第1番」を読んでいたので、そこには昔はシンセで音源を作っていたと書いてありましたし、新垣氏 の自伝でもそれは書いてあります。ただその音源がしょぼすぎて、新垣氏 はそれを作曲と認めていませんでしたが、これも 新垣氏 のレベルでの認識だから、ということが重要です。人によって出来る出来ない、やったやってない、のレベルが違うのです。

結局私が知りたかったのは、佐村河内氏 だけの力でどれくらいのレベルの曲が作れるのか、という部分でした。つまり原曲はおそらく作れるんだろうけど、どのくらいのものを作れるのか、という部分です。

これらの自伝を事前に読んでいればラストシーンは別に衝撃でも何でもなく、作曲出来ること自体には驚きもしません。あ〜やっぱりその方法で作曲してたのね、という感想です (ただ彼の作る曲自体には半端ない興味がありましたので、そこは衝撃、クギ付けでした)

つまり整理すると、彼は普通のやり方でなら作曲できますよ、という話です。あとはそこに耳が聴こえている、聴こえていないというハンデがあるかどうか、だけです。

コンプレックス

作曲を終えた後の 佐村河内氏 は幾つかの感情を取り戻したような言葉を吐きます。

まるで、霧が晴れたような、新しい自分に出会えた、または何か大事なことを思い出したような、そんな印象的なシーンでした。単純に 佐村河内氏 がすごく明るかったのです。

しかし私は映画の中で、唯一そのシーンだけが違和感を感じました。

世間の目は冷たく、製品レベルの作編曲は 新垣氏 がしていて、さらに騒動後にメディアに露出し、即興でピアノを弾いたりコラボしたりと、彼は完全に音楽家としての存在感を世に知らしめます。

その反面、佐村河内氏 はその二つも出来るけど、新垣氏 と比べるとどちらも二流三流の腕前です。これが彼の最大のコンプレックスでしょう。

だから最後まで「指示書」に拘っていたのかもしれません。

これだけ詳細に音楽的視点 (あくまで彼の価値観での) で書いていることで、原型はあくまで自分なんだ、と言い張りたいんでしょう (まぁこれでは作曲の証明にはなりませんが)

唯一そこだけは「技術の高さを示唆する表現としては最後の砦だった」のかもしれません。違うかもしれませんが。

要はゴースト騒動後は、指示書に関しては誰にも書けないような濃密な内容、いかにもクレイジーな筆跡、細かさ、そう言った部分をアピールする必要性があったのでしょう。作曲に関しては自分の負けを認めているから 新垣氏 に曲は書かせたわけなので。

共作にするなら自分もそれくらいのレベルのことをやっている、というところを見せる必要があります。それが彼にとっては指示書だったのかもしれませんね。

彼はゴースト前はとことんハンデを設定し、アピールすることで曲の付加価値を上げていました。そうでもしないと、鬼武者や HIROSHIMA が世にでるまでは話題性がありません。最初はこの為だったのでしょうね。

アピールのために設定したことが、今度は曲そのものが単独で評価され、さらに 新垣氏 が作ったことも知れ渡ったとなれば、もう彼に残された価値というのは「原型の提案の可能性」か「曲が世に出せるところまで引っ張ってきた行動力」だけでしょう。

まぁ私はその後者の熱意だけでもすごいとは思いますけど・・・最初から共作にしなかったことがこれについては敗因でしょう。これは巷で言われていますが。

これはゴーチが名声を独り占めしたかったから、とも考えられるし、あくまで 新垣氏 がゴーストで良い、と言っていたからというのもあるので、なんとも言い難いのですが・・・。

だからもういいじゃん、ってなるんですけど。

この一連を 佐村河内氏 が見て、色々と思うところはあるのは当然だと思いますが、まぁ単純に全部良いところを持って行かれた感はあります。

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https://filmers.jp/articles/2016/05/24/12fake/

話を映画に戻して、

映画の中での曲の作り方を見ると、少なくとも彼の目指す現代音楽やクラシック、オーケストラというジャンルでは無理なクオリティだと思います (成長という見込みを考えず、映画の中で流れた曲だけで判断した場合)

自ら指揮するとか、オーケストラの録音のコネを持っているかなどは 新垣氏 の学生時代からの武器なので、仮に曲だけそこそこのものが書けたといても成功は難しいでしょう。

まぁ無理と自覚しているから本人は 新垣氏 に頼んでるのですが・・・。

なんというか、作曲を終えた後の 佐村河内氏 は自分で曲を作ったことに満足しているように見えました。それが先ほど説明した私の違和感です。

私も作曲しているから分かるのですが、初めて自分で作曲したり、曲を完成させた後の達成感みたいなものをあのシーンから感じました。

もはやそのシーンだけは、すべての矛盾や良い悪いを忘れてゴーチの作曲を見守りたい

なぜかそんな気持ちでした。

だから作りきった時に、あの表情が出たのかなぁと思いましたね。

(まーあのシーンさえも嘘だったら本当に救いようがない・・・少なくともフレーズは弾いていたし、打ち込みレベルから見ても外注はないでしょう、しっかり音色打ち込んでいたし)

だから完成した時のあの明るさ、何か (やりがい、自信かな?) を取り戻したように見えました。

それをまた失うのか、その感情を大事に育てていくのかは分かりませんが、とにかく自分の曲にもっと自信を持って作曲を続ければ良いのに、そんな風に思いました。

これが私の感想。てかこれだね私の感想は。

ラストのシーンというのは、いろんな意味で 佐村河内氏 の本質が撮れたのでは? と思います。

聴こえるかどうかがどうでもよくなった理由

仮に聴こえなくても聴こえていても、出来上がるものはそんなに変わらないからです。つまり、あれだけ曲を形にしてしまっている以上、たとえ聴こえてたとしてもあのような仕上がりになります多分。

もし聴こえてなかったなら音が聴こえないわけだから、キーボードを弾く意味も無いし、100歩譲って絶対音感を使って鍵盤からフレーズを確認 (音程を想像) するのは許容できても (XのYOSHIKI 氏もこういうやり方で音は鳴らさず、鍵盤だけを見て音程をイメージし譜面の書くと言っていた)、シンバルなどの金物などは、どの鍵盤にサンプルがアサインされているか分かりませんから (スタンダード MIDI のオーケストラキットを使用して取り扱い説明書を見ながら各鍵盤にアサインされている場所を確認したとかならもうそこまで突っ込みませんが) 香さんに確認しない限りは無理でしょうし、であれば作曲、写譜する時は神聖な行為だから香さんさえも立ち入り禁止にしていた、という話も嘘になるでしょう。まぁ今回からは例外、と言われたらもうどーでもいいですが。まぁ早い話もう無茶苦茶なんです。

ただどちらにせよ、聴こえないなら補聴器をして作曲する説明に無理があるのでもうこの話は終了です。

だからそういう細かい今までの嘘とかはもうどーでもいいから、今はとにかくその曲を完成させてゴーチ!!

ってなるわけです。いや、ホントに。

譜面が書ける、書けない、聴こえる、聴こえない、ラストのシーンでそれらが本当に私の中でどうでも良くなりました (何回言うこれ)

少なくとも彼らしい曲で、彼らしい作り方で、彼らしいフレーズで、聴いていて、壮絶な人生を感じられるような悲壮的な曲で良いな〜と思いましたし、自分自身で作曲を続けていたら、今とは違う形で世に曲を出していたのかもしれません。

まさか自分の書いた曲が初めて世に出るのが、自分のドキュメンタリー映画のエンディングになるとは思ってもみなかったでしょうが・・・。

少しまとめ

色々と数え切れない嘘やごまかしをしてきた彼ですが、逆に最後まで一貫して変わらずに主張し続けてきたこともあります。

  • 音楽はとても好き

この点ですね。聴こえないのに音楽はずっと好きという彼でした。

音楽が好きな者として言わせてもらうと、もしこれが本当であれば、

彼には是非、実は聴こえていてほしいな

と思います。世間には聴こえていない、で通してもらっても別にいいしもう。

そんなに音楽が好きなら聴こえていてほしい。その方が音楽を楽しめるだろうし (そういう問題じゃないし、本当に聴こえない方にとっては許しがたい行為なのは承知ですが)

多面性の映画

感想は人それぞれ色々あると思います。

単純に奥さんとゴーチのやり取りもそうです。何年もゴーチと一緒にいて、色々知った上でまだ一緒にいるんだから、香さんのお母さんから洗脳とか色々言われるのは分かりますが、もうそんなのいいじゃんとか思います。それでも一緒にいるんだからそれが香さんの答えでしょう。

この映画は、この二人のそういう支え合ってきた姿も映しているので、こう言った視点で見るのも一つの楽しみ方だと思います。

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メディアが映し出す情報の真実というのは、この映画を見ることで多少なりとも捻じ曲げられているということが改めて分りました。全てがそうではないと思いますが、少なくとも社会はそのように構成、構築されており、それは自分自身も生きてきて色々と見覚えがあります。

この映画を見て少なからず影響を受けている時点で、すでにその構造に組み込まれているのだと思います。おそらく脱出は出来ないと思います。いや、別に出来なくてもいいのですが。

自分の目で確かめろ、っていうメッセージと、自分はどう思うのか、というところが大切なのでしょうね。

作曲に偏った視点での感想になってしまいました。

私では色々な矛盾を時系列に沿って解決出来ませんが (面倒臭いので)、聴こえる聴こえないはもういいので、できれば次の展開を期待したいですね。ゴーチと 新垣氏 の活躍を期待します。ゴーチは出来る範囲で良い。てか作ったあの曲よかったし正直。

自分の曲に対する自信

先ほども書きましたが、始まりは彼の自分の曲に対する自信の無さそれだけだと思います。アッサリしてますが、多分そこがすべての原点かな。この規模ではもはやそこは当たり前なので論点では無いとは思いますが、正直原点はそこでしょう。

でも作曲視点で見るとそこが一番気になる部分だったりするんです。「動機」ですね。おそらく、最もそこが共感できる部分だからでしょうね。ゴーチはどうしても成功したかったのでしょう。ゴースト起用して嘘ついてまでも。

騙して営業して仕事取ってくるのは正直あれですが、逆に好きだとか、執念レベルじゃないとそこまで出来ません。

とにかく普通の人ではないのは確か。だから魅力的ではある。

作曲って難しいし、それで自分の狙ったジャンルや規模で成功するしないでも、自分の人生かけていればいるほど趣味でやるのとは違う悩みや壁もあるとは思います。まぁだから嘘ついていいわけじゃないですが。

正直、鬼武者も HIROSHIMA も良い曲で、どんな形であれそれらを体験出来たのはゴーチ、新垣氏 両名の存在あってこそです。だからもうここまでの話は共作で片付けて良いから早く前へ進んでほしい。重要なのはこれから。

新垣氏 も自分で活動し始めているのだから。ゴーチの方が風当たりが厳しいのは承知ですが作曲して欲しい。

と、ここまでが純粋に見た感想です。

ネタバレを知った後の感想

映画を見るまで一切にネット上での情報を遮断してましたので、映画を見ている時にはネタバレに残念ながら気がつきませんでした。ネタバレって、単純に「ラストシーンを見ること」だと思っていたんです。違いました。二重トリックでしたね。

実はその作曲シーンだけが隠し撮りをされたシーンだったようです (なんとw)

つまり、誰もいない、もしくはカメラを回しますよ〜と言ってないから、香さんしかいないから補聴器しながら作曲していたわけですね。

ちょっと映画を一回しか見ていないので、うろ覚えなのが残念ですが、メロディが合っているか、チェロが聴こえているかを香さんに確認するシーンがありましたがそれも隠し撮りだったのかは分かりません。

何れにしても、補聴器をしていなかったら完全に聴こえているのでしょうが、して作曲していたのですから、聴こえにくいけど何とか作曲したという風に考えてよいでしょう。

FAKEの見所

何と言ってもゴーチの曲が聴ける部分です。

あのシーンは正直誰もが魅入っていたと思いますよ。映画館でも周り見てましたがみんな釘付けでした。実際に鍵盤を弾く姿、作曲した音源そのものは初公開ですからね。

やはり普通に見てもある意味衝撃のラストです。

別にあのシーンは着飾ってもないので、あそこで感動した人がいるってことは少なくともゴーチの作曲は人を惹きつけるものがあるってことだと思います。自分もそうだったし。

まぁ有名になって、映画で見てるからっていう補正は少なからずあるかもしれませんが、曲作れなかったらそれも無理なので。だからそう言った魅力? はゴーチは少なからず持っていると思います。

感想は変わらない

まぁ予想通り、聴こえている上でもこのクオリティだったので、ネタバレを知ってもやはり大して驚きはしませんでした。自分にとってもう聴こえる聞こえないはそこまで重要ではないので。

ソファ? にカメラが仕込んであったのかは実際分からないので、それこそ私もネット上でのネタバレを鵜呑みにしているだけですが、どのみち聴こえる聴こえないは関係ないという前提での感想を書いていたので感想は変わりません。どっちでもいいです。

確かに鬼武者の音楽で彼を知って好きになった時は、あくまで「全聾かどうか」というのが私にとっては重要な項目だったのですが、ゴーストと知ってからはもう大した問題ではなくなりました。というかそう思ったんです後から。

ゴーストだったという衝撃も時間が経つと慣れてどうでもよくなるんです。残したもの (音楽) には価値がある。これ人生のヒントかな? 

なので鬼武者の音楽が良い曲なのは変わりありません。それについてはこちらの記事で述べました。

andy-hiroyuki.hatenablog.com

聴こえる聞こえないもどうでもよい。顔太鼓はもっとどうでもよい (面白いが)

ただ興味があるのは、これから作るゴーチの曲です (新垣氏もね)

とにかく前へ進んでほしい。

この映画がそのキッカケになればいいな。